ふと、関西人の違い

 大阪市に1年いましたが来る前とは関西に対するイメージがだいぶ変わりましたね。来る前は関西の一括りでしたが実際住んでみて大阪でも市によりやはり特色が違う、兵庫の人と大阪の人は違う。まぁ定番ネタだとは思うんですが......

 

大阪人:フレンドリー、優しそうな雰囲気がる、笑いを常に受け入れてくれる、人がいい

 

兵庫人:割と自立している、他人に頼らない、自分のことは自分でやる、笑いが大阪と違い自分で喋って勝手に笑ってる感じの人が多い、自分の話しして自分でウケてるみたいな

京都人:よく分からん、いかつい、そこまで自分から笑いを取りに行こうとする感じはない

 

奈良人:穏やか、いい人多い、気性荒くない、まぁまぁ面白い

 

滋賀人:情報が少ない

 

和歌山人:有名人が多いか? お金持ちとか

 

 

さてさて御開きに

さてさて、ブログを読んでいただいた方はありがとうございます。

 

今日初めてブログを始めて書いてみました。思ったよりも思っていることをスラスラ書けてしまうものなんですね笑

 

始める前はよく分からないしなんかいいかなって感じでしたが今日実際始めてやってみた感想はよかった、という気持ちの方が不安よりも強いかもしれません。

 

最後のブログは熱くなりましたがあれが僕の現時点での考えであるところです。

やはり何ごとも始める前はとても不安になるし、実際よく分からないことがあるとテンパります。

 

時々時間があるときは更新しようと思いますのでよかったらどうぞ。

今後考えていること

 4つ記事を書いてみましたがとりあえずこの話はおいておきましょう。全てにおいて細かく書こうと思ったら、本を出版しないといけないくらいの活字量になるな、と思ったのでやめときます。

 

 今は仕事をしています。建築現場がメインです。この前まで大阪に1年住んでいたのですがまぁ色々あり、もっと稼ぎたい、となったら東京行くしかないかなと思い出てきた感じです。大阪、東京の違いというとやはり絶対的に違うのは人の数。給料は一般的には東京の方がいいとは思いますがやはり色々な人と会う機会がある。梅田ー難波なんて5分で着くけど池袋ー秋葉原、東京間なんて2,30分はザラ。

 

 雇われているだけの立場だとやはり給料には限界がある。もっと出勤数を減らしてもっと遊びたい、と思っても出勤数を減らせば遊べない。なんでもいいから会社を起こし就業員を雇おう、と思っても薄っぺらい知識では簡単でなければちゃんとした拠点も欲しいし、リラックスできる環境も欲しい。

 何かの状況に好転の風を巻き込むにはやはり"目の前のことを全力でやるしかない"、というのが僕が生きてきて出した答えだ。これは僕にとってはとてもでかい発見だった。なぜならば何をしているかよく分からないのにやたらリア十感.....遊び呆けてるのが最高みたいなテレビやsnsでアピっているのを見て羨ましく思ったりイラっとする自分がいた。これはあくまで僕の価値観でしかないが確かに楽しいのはいいことだし、毎日が楽しいなんて本当に最高だ。だけど自分が人生に何を求めているのかはっきりしているならば別に羨ましくもないはずだ。建築関係の仕事に関してはやることはいつも同じかもしれない。だが、日が経つにつれ建物の内装、外装は変わっていくし色々な職人さんがいることを知ることができ、どのように建物を作っていくのかを目の前で見ることができるからだ。週5も6も出勤なんて正直したくない。週3日休みでその日に起業とか色々な情報収集をしたい、とも思う。それも大事だ。だがアクションを起こさなければやはり何も変わらない。リスクを冒さなければならない。でなければせっかくのチャンスをつかみ損ねてしまうかもしれない。

 

 僕の海外での経験。旅費、家賃、食費、授業代、全て親に出してもらった。サッカーをしにきてチームと契約しチャンスはあった。だが逃した。甘かった。それは紛れもなく親にお金を出してもらっているからだ。もし自分のお金できていたのであれば当時の資金を貯めるのに1年仕事をし続けてみたが全く到達しないことがわかる。それどころかこの前親に返すのを約束してお金を貸してもらったばかりだ。

 自分のことは全て自分でやる。まわりが適当で気をぬいて仕事をしようがサボっていようが遊んでいようが自分の目標とする場所にどうしようもない状況に好転の風を巻き起こすにはただただ1日1日全力で目の前の事に取り組むしかない。

 それが自分の足で歩いて出した僕の答えだ。人生なんていつ終わるか分からない。生きてて当たり前なんかじゃない。もし1時間後、10分後、1分後、1秒後、地球、人生が終わると分かっても今日の生き方に後悔はないか。

 自分の目標、それに対する熱意、はっきりしているから今日寝るまでも明日も全力で生きる!

1年半、ざっくりとした生活

 はっきり言わせてもらおう。笑いたい人はどうぞ笑ってくれていいし馬鹿にしたい奴は勝手にしてくれ。

 

 当時はサッカー選手としてお金を稼ぎ海外で生活したいと思っていた。もともと海外に住みたい、という意識は強くヨーロッパへの憧れ、かっこいい選手達、ゴールを決めた時の選手、観客、監督、スタッフのガチの悦び、僕もあんなに感情を爆発させてアンセムを聞いてあのピッチでプレーしたい、と何度も思っていた。サッカー好きで本気でやってた人はやはり思う人はちらほらいるだろう。

 

 さて生活であるがまぁとにかくサッカーの自主練ばかりしていた。

 高校に簡単に戻る必要がなかった理由。携帯を持っていなかった。細かく書くとあれだがまぁあっても大して使わないからいいか、ぐらいの気持ち。また実際高校を辞めた後、前から考えていたわけではないが僕に連絡をしてくる手段は家電くらいしか実際ないわけである。これはでかい。

 

 地方だったため仕事も都心のように大してあるわけではなく、目星がつくとしたらコンビ二の店員程度。ここも割愛するが25,26様々なバイトに応募したがクソほど落ちた。最終的にセブンイレブンで雇ってもらった時はマニュアルに沿って大きな声で社訓を毎日唱えるのが変な宗教のように感じ1時間半でやっぱりやめます、といいやめる。ローソンでも1度雇ってもらったが20代か30代の女性の店長がイマイチ好きになれず1度指示された内容のことと別のことをしたら......最終的にやめたほうがいいとマネージャーに言われ、30近く面接を受け全て落ち、最後の砦だったため休憩室でマネージャーの前で1分くらい全力で泣き人生終わったと思った。別に髪も染めてないしピアスもしてない。最初のバイト普通に落ちたと、父に話したら父が学生の頃余裕でバイト何十種類かしたことある、と言われていたため(後で東京での話だったことに気づくが)当時は自分の不甲斐なさがたまらなく辛かった。

言ってはいけない家の中の日常

 お疲れ様です。続きです。

 

 これは正直言ってはいけないことであろう。ただぼんやりとだけ書かせてもらおう。

 

 母は当時仕事はしていない。家にいる..........

 

 食事.........

   勝手にちゃんとした説明もなく学校に突然行かなくなった息子。

 

 やっぱりやめましょうか。

 

 次回:空白の1年半の過ごし方

空白の1年半、そしてヨーロッパへ

 こんばんは。さっそくタイトル通り説明していきますね。

 

 高校を辞め、自分のやりたいように生活ができ自分の時間ができる一方当然、そんな状態をいいとみない人達がいる。そう両親である。僕の家庭は詳しく言えないが一般的、と言われる家庭とは確実に1つは違っていることがある。それも当然各々がどう捉えるかにより好転もするが、いい捉え方をしない選択を取るならば当然必ずしも家庭にいい風が吹かず淀んだ空気感が包み込む日だってある。

 

 父からは当然学校に行くよう促される。毎朝父が仕事に出勤するまでしつこく問いただされる。僕にとってはものすごく迷惑であり不愉快だ。学校からはとりあえず学校が提携するカウンセラーに行くよう母が言われ僕としては全く行く気は無かったが、無理やり理由をつけられ車に乗せられ2回だけ行った。どうでもいいくだらない話をした記憶しかない。

 また、通信制の学校にも行くように言われこれも行く気が全く無かったのだが半強制的に連れて行かれたが案の定グダグダで一体ここの生徒は何のために来ているのか、ただ高卒の資格のためだけにいてるんじゃないか、と当時の僕はあきれかえり当然そのことを親には伝えすぐにいかなくなる。

 

 次回、学校から強要されるものがなくなり真の自由を得る。そして知った家の中の日常。そして僕の家族での居場所......

初ブログ!

 はじめまして。momorokusukeです。始めたばかりなので右も左もわかりませんが時間あるときにちょくちょく書いていこうと思います!年齢は20代前半です。

 

 簡単な自己紹介。地元の高校は途中で辞めた。確か高2の6月。それは大学に進学するか考えた時に自分が人生において一体何をしたいのか、何をどこを目指しているのか、そして自分はどういう人生を送り生涯を終えたいのか、そう考えた時結果として途中で高校に行くのを辞めた。親からはなぜいかないのか聞かれても行かなくなった時はまだ漠然としてて自分の中ではっきりしたものはなかった。書くと長くなるので今回は割愛するが趣味であったサッカー部をやめないといけなくなったり(高1の10月)、1日中勉強ばかりの生活も自分にとっては義務ではなくなり開放感に浸りつつそれまで離れていたサッカーを近くにしに行ったり、全くしていなかったゲームに没頭した。

 

 そして、それから空白の1年と半年を経て海外にとりあえず半年行くことになる。

 細かい説明は次回のブログで。